人生の中で、ふっと不安になることはありませんか?
「自分は、本当に大切な人間だろうか」
「こんな自分は、誰かの役に立っているだろうか」
「もし、今の仕事を失ったら、友人に見放されたら、自分は何も残らないのではないか」
そんなことを考えていると、心が小さくなっていくような感覚。夜中に目が覚めて、天井を見つめながら同じことばかり考えてしまう。そういう経験、ありませんか?
私たちは時々、自分の価値を外側の成功や評価で測ってしまいます。給料が良い、昇進した、見た目が整っている、誰かに褒められた。そうした「何かを持っている」ことが、自分が価値ある人間だという証拠だと思い込むんです。でも、それらすべてを失ったとき、果たして自分は誰なのか。そんな問いが襲ってくるのです。
もし、そうだとしたら…
あなたは、自分のことを、どんなふうに思っていますか?
もし、すべてを失ったとしても、あなたは価値のある人間でしょうか?
古い書物の言葉
古代の知恵の書に、こんな言葉があります。
「神は世をこのように愛された、ひとり子をお与えになったほどに。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3:16)
二千年前に書かれたこの言葉は、一見、信仰の話に聞こえるかもしれません。でも、少し違う角度から読んでみてください。
この言葉が本当に言いたいのは、こういうことです。
「あなたは、愛されている」
その愛は、条件付きではありません。成功しているかどうか、誰かの役に立つかどうか、給料がいくらかといった外側の条件で決まるものではないということです。
古代のユダヤ人たちにとって、「世」というのは「すべての人間」という意味でした。富んだ者も、貧しい者も。強い者も、弱い者も。道徳的な人も、そうでない人も。すべての人間が、こっくりと包まれるような、そんな愛で愛されているということです。
その愛は、「与える価値がある」と判断してから与えられるものではなく、最初から与えられているもの。だからこそ、「ひとり子をお与えになった」という、これ以上ない代価を払ってまで、示されたのです。
言い換えれば、あなたは、そのままの状態で愛されている。完璧である必要はない。成功している必要もない。ただ、「あなたである」という理由だけで、愛されているということです。
今、できること
もし、このことが本当だとしたら、あなたの人生はどう変わるでしょう?
まずは、小さなことから始めてみませんか?
今日、自分に対して、少し優しくしてみてください。仕事で失敗したとき、「ああ、また失敗した。自分はダメだ」と責めるのではなく、「そっか、失敗したんだ。人間だもんね」と、少し優しく受け止める。
もし、誰かに見放されることが怖かったら、その怖さを少し手放してみてください。「自分は、誰かに評価されるために生きているわけではない」という考え方を、心のどこかに置いておく。
そして、もし余裕があれば、誰かに対して、条件なしの優しさを向けてみてください。相手がどんな状態であっても、「あなたは大切だ」という思いを、ひとことか、ふたことか、態度で示してみる。それは、自分自身が「愛された者」であることを、少しずつ理解していくためのやり方になります。
私の経験から
私は、63歳で仕事を失いました。その瞬間、本当に大切なものが何なのかが、突然わかった気がしました。
給料も、肩書きも、何もかもなくなった。食費も月に1万円程度に減ってしまった。そのとき、初めて気がついたんです。「あ、自分の価値は、これらの外側のもので決まっていたんだ」と。
でも、その中でです。わずかでも、妻が私を見守ってくれていること。友人が時々声をかけてくれること。そして、自分が「生きている」という、ただそれだけのことに、何かしら深い意味があるような気がしてきたんです。
やがて、67歳のとき、その想いが「愛されている」という言葉に出会った。二千年前の言葉が、現代の貧困の中で、俄かに明るく輝いて見えたんです。
私たちは、完璧である必要はありません。成功している必要もありません。ただ、「ここにいる」それだけで、大切にされるべき存在なんだと、今は心からそう思えます。
あなたへの願い
もし、あなたが今、何かを失うことを恐れているなら、また違う角度から人生を見てみませんか?
あなたの価値は、何かを持っているから生まれるのではなく、もともとそこにあるのです。
それに気がつくだけで、人生は大きく変わります。
あなたの人生に、小さな光が差しますように。
今日、考えてみてください
あなたは、自分のことを、どう思いたいですか?その答えを、少しずつ、変えていくことはできませんか?


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