思い煩いを手放す

日々の気づき

あなたも感じたことありませんか?

朝目が覚めた時から、心が重い。

「今日、あの会議がある」「給料は足りるだろうか」「あの人は、私をどう思っているんだろう」

そんなことばかり考えていると、気がつくと夜中になっていて、眠れない。眠っても、うなされて、朝目が覚める。

「どうして、こんなに心が重いのだろう」

毎日が、心配と不安の積み重ね。その心配が現実になるわけでもないのに、なぜか、頭の中で、何度も何度も同じシーンを繰り返す。

「もし、こうなったら?」

「もし、あれが起きたら?」

そうした「もしかして」が、私たちの心を蝕んでいくのです。

特に、日本社会では「心配すること」が、一種の美学のようになっています。「気が利く」「誠実である」「真面目である」の証として、事前に心配し、準備を整える。そうした態度は、確かに大切です。

でも、多くの人は、その「必要な心配」の範囲を超えて、「不要な心配」まで、心に抱えているのではないでしょうか?

過ぎ去った過去のこと、まだ起きていない未来のこと、そうしたものまで、心配し続けている。その結果、今、この瞬間を、大切に生きることができていない。

もし、そうだとしたら…

その心配は、本当に必要ですか?

そして、その心配を、手放すことはできるのでしょうか?

古い書物の言葉

古代の知恵の書に、こんな言葉があります。

「何も心配してはいけません。むしろ、どんなことについても、感謝をもって祈り、願いを神に伝えなさい。そうすれば、すべての考えを超えた平安が、あなたの心と思いを守るでしょう。」(ピリピ4:6-7)

二千年前に書かれたこの言葉は、心配について、非常に正直に語りかけてくれます。

まず注目すべきは「何も心配してはいけません」という表現です。

これは、「心配するな」という命令ではなく、「そこに心配の必要はない」「心配は無意味だ」という認識の提示です。なぜなら、心配しても、未来は変わらないからです。

むしろ、この言葉が提案しているのは、別の方向です。

「どんなことについても、感謝をもって祈り、願いを神に伝えなさい」

ここでの「祈る」というのは、宗教的な儀式ではなく、もっと広く「自分の思いを、誰かに伝える」「自分の気持ちや願いを、心の外に出す」という意味で理解できます。

つまり、「心配の代わりに、感謝と願いを、心の外に表現しなさい」ということです。

これは、心理学的に見ても、非常に理にかなっています。

心配というのは、「内に閉じこもった状態」です。気になること、不安なことが、ぐるぐると心の中で回ります。その悪循環から抜け出すためには、その思いを「外に出す」ことが有効なのです。

紙に書く、誰かに話す、声に出す。そうすることで、心の中の「もやもや」が、少しずつ、明確になり、距離ができるのです。

さらに素晴らしいのは、そうした行為の後に起こることです。

「すべての考えを超えた平安が、あなたの心と思いを守るでしょう」

この「すべての考えを超えた」というのは、理屈を超えた、ということです。

つまり、「心配は論理的です。『こうなったら困る』という、一応の理屈があります。でも、平安というのは、そうした論理を超えた感覚」なのです。

あなたが、すべてを計画し、すべてをコントロールできていなくても、「大丈夫だ」という感覚。それが、心と思いを守るのです。

今、できること

では、具体的に、思い煩いを手放すには、どうしたらいいでしょう?

まず、あなたが今、何を心配しているのか、紙に書いてみてください。

具体的に、できるだけ詳しく。その心配が実現する確率は?そして、その時、自分は本当に何もできないのか?

そのように、心配を「客観化」することで、その大きさが、実は自分が思っていたより小さいことに、気がつくことがあります。

次に、その心配に対して、自分は何ができるかを、考えてみてください。

会社の業績が心配なら、自分ができることは何か。人間関係が心配なら、自分から何か行動を起こせることがないか。

そこに、「できることがある」なら、それをしてください。そして、「できることがない」なら、そこで、手放すのです。

さらに、毎日、小さな感謝を見つけることを習慣にしてみてください。

朝日が気持ち良かった、温かいお茶が飲めた、友人からメールが来た。そうした小さなことに、「ありがとう」と、心の中で言う。

その習慣が、少しずつ、心を「心配モード」から「感謝モード」へシフトさせていきます。

そして、もし深い不安があるなら、誰かに話してみてください。紙に書くのでもいい。そうして、心の中に閉じこもっていた不安を、「外に出す」のです。

その瞬間、その不安の力は、大きく弱まるのです。

私の経験から

私は、63歳でうつ病になった時、心配と不安しかありませんでした。

「給料がない」「健康がない」「将来がない」

そうした心配が、毎日、毎秒、心を占拠していました。その頃の日記を読み返すと、暗さだけが目立ちます。

でも、その中で、私は学びました。

その心配が、何も変えていないということです。

いくら心配しても、明日の給料は増えない。いくら不安でも、今の健康状態は変わらない。

「であれば、心配するのは無意味ではないか」

そう気がついた時、初めて、心配を手放す準備ができたのです。

そして、同時に、感謝を見つけ始めました。

貧困の中でも、妻が支えてくれている。友人が声をかけてくれている。毎日、生きていられている。

その小さな感謝の積み重ねが、やがて、大きな平安へと変わっていったのです。

今、81歳の私でも、心配が襲ってくることがあります。でも、その時は、自分に問い直します。

「これは、心配する価値のあることですか?」

多くの場合、答えは「いいえ」です。そして、その時、平安が戻ってくるのです。

あなたへの願い

もし、あなたの心が、今、思い煩いで満ちているなら、一度、止まってください。

その心配は、本当に必要ですか?

できることをして、できないことは手放す。そして、小さな感謝を見つける。

その繰り返しが、やがて、「すべての考えを超えた平安」へと、あなたを導くでしょう。

あなたの心が、少しずつ、軽くなりますように。

今日、考えてみてください

あなたが今、心配していることの中で、本当にあなたにできることは、どれくらいありますか?そして、その心配を、誰かに話してみることはできますか?

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