あなたも感じたことありませんか?
何かを手に入れたい。もっと欲しい。もっと多く。もっと大きく。
人間の心には、終わりのない欲求があるようです。若い時は、それが原動力になります。もっと稼ぎたい。もっと認められたい。もっと成功したい。その欲求が、人生を動かしてくれます。
でも、年を重ねるにつれて、気づくことがあります。いくら手に入れても、いつも何か足りない。いくら得ても、それで満足することがない。そういう生き方に、ふっと疲れてしまう時が来るのです。
物質的に恵まれていても、心が満たされない人。何もかも失った後に、初めて心の平穏を感じた人。人生の後半に差しかかると、「足りる」ことの大切さが、ぼんやりと見えてくるのです。
もし、そうだとしたら…
もし、今のあなたがすでに「足りている」としたら。そう気づくことで、人生は変わるでしょうか。
古い書物の言葉
古代の知恵の書に、こんな言葉があります。
「敬虔さに満足をともなうことは、大きな利益である。私たちは、何も世に持って来なかったし、世から何も持って行くこともできない。食べ物と衣服があれば、それで満足しよう。」(1テモテ6:6-8)
この言葉は、紀元1世紀の使徒パウロから、若き弟子テモテへ送られた手紙です。当時も今も、人間の心の葛藤は変わっていません。
この言葉が指摘しているのは、シンプルな真実です。私たちは、この世に何も持って生まれてきませんし、何も持って去ることもできない。であれば、食べ物と衣服、つまり基本的な必要が満たされれば、それで十分ではないか。そう問いかけているのです。
特に興味深いのは「敬虔さに満足をともなう」という表現です。敬虔さとは、人生を真摯に生きる態度のこと。そして、その態度に「満足」がともなう時、それは「大きな利益」になるということです。
つまり、お金や物ではなく、心の状態が本当の豊かさなのだということ。外的な条件ではなく、内的な充足感が、人生の真の価値を決めるということなのです。
今、できること
では、この「足ることを知る」ことは、今の私たちにどう活きるのでしょうか。
まず大切なのは「今、あるもの」に目を向けることです。 私たちは、すぐに「ない」ものに目を向けてしまいます。欲しいもの。足りないもの。失ったもの。その思いが心を占めてしまい、すでに「ある」ものが見えなくなるのです。
試しに、今この瞬間、あなたの周りを見まわしてみてください。食べるものはありますか。着るものはありますか。屋根の下にいますか。そして、あなたの心に、少しの安心がありますか。実は、人間が生きるために必要なものの、ほとんどはすでに揃っているのです。
次に大切なのは「比較をやめる」ことです。 不満は、比較から生まれます。他の人との比較。自分の理想像との比較。メディアが示す「こうあるべき姿」との比較。その比較の中で、「自分は足りていない」という感覚が生まれるのです。
でも、人生は競争ではなく、一人一人の営みです。自分の人生を、他の誰かのものと比べる必要はないのです。自分の人生で、自分に必要なものだけを見つめる。その時、初めて「足りている」という感覚が生まれます。
そして最も大切なのは「感謝する習慣」です。 当たり前だと思っていることに、「ありがとう」と言う。毎日食べられることに。健康でいられることに。一緒にいられる人がいることに。その感謝が、心を満たすのです。
感謝は、欲求から解放される魔法の言葉です。感謝する時、人は、すでに「足りている」ことに気づくのです。
私の経験から
私は63歳で失業し、食費月1万円の貧困を経験しました。その時、本当に苦しかったのは、お金がないことではなく、心が満たされないことでした。
でも、不思議なことに、その苦しみの中で、初めて見えたものがありました。冬道を灯油タンクを担いで1キロ歩く中で。近所の人の小さな親切に。一杯のお茶をご馳走になることの喜びに。
貧困の中で、私は気づきました。お金がたくさんあった時には見えなかった、人間の温かさが。自然の豊かさが。毎日生きていることの奇跡が。その時初めて、「足ることを知る」という言葉の意味が分かったのです。
今、私は81歳になりました。死ぬ時に、何も持って去ることはできません。であれば、今この瞬間、心が満たされていることが、何よりも大切なのだと思います。
あなたへの願い
人生の後半に差しかかると、多くの人が気づきます。欲望に追い立てられるだけの人生ほど、空しいものはないということを。
本当の豊かさは、心の中にあります。感謝すること。今、あるものに目を向けること。人とのつながりを大切にすること。そうした、お金では買えないものが、人生を本当に満たすのです。
あなたの心が、満たされていますように。
今日、考えてみてください
今、あなたが感謝できることは、何ですか。今日、その一つに「ありがとう」と言ってみませんか。


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