67歳で学生になると決めたとき、正直に言えば「大丈夫か?」という不安はあった。
炭砿、土木、電気、建築。転職を重ねた人生の中で、妻を亡くし、67歳で初めてキリスト教信仰を持った。受洗してまだ半年。周りはみんな若く、信仰歴も自分より長い。でも、この歳からスタートするクリスチャンだからこそ、一生懸命勉強しなければと思った。
心を動かした一つのメッセージ
きっかけは、シンガポールから来た宣教師のメッセージだった。
日本語は完璧ではなかった。でも、ルカの福音書にある「失われたもの」について語るその声には、神の愛の深さが滲んでいた。犠牲の愛について語る言葉に、何かが心を揺さぶられた。
「もっとこの人の話を聴きたい」
「この人から学びたい」
その想いが、67歳の私を動かした。
決断への道
教会に通い始めたとき、牧師が自死して無牧だった。宣教師や神学校の教師が日曜日のメッセージを担当していた。学院長から洗礼を受け、ギリシャ語やヘブル語を学ぶという世界を知った。ヘブル語の教師が「難しくないよ」と言ってくれたことも、背中を押してくれた。
冬の学院見学会に参加したとき、受付に「短期信徒コース」という文字を見つけた。これだ、と思った。
「まだ教会に相談していないのですが」と伝えると、学院長が「私が推薦します」と言ってくれた。その一言が、4月からの入学を決めた。
でこぼこのスタート
入学式の時刻を間違えて、集合写真に入れなかった。初日の講義では駅の降り口を間違えて、反対方向に進み遅刻した。でこぼこな入学だった。
朝6時に家を出て、バスと電車を乗り継いで8時半の授業。午前の授業を終えて昼食、帰宅して午睡、夕飯を食べてからレポート作成。毎日、夜中まで続いた。
ギリシャ語を覚えるのは想像以上に大変だった。1学期で保留にすることにした。ギリシャ語だけに時間を取られて、他の授業についていけなくなるからだ。でも、他の科目だけなら「ついていける」と確信した。
支えてくれたもの
一番楽しかったのは、毎日午前中にある「チャペルタイム」だった。交代でメッセンジャーが立ち、ミニメッセージを語る。若い人たちと一緒に学ぶ時間は、ワクワクとは違うけれど、確かに愉しかった。
一緒に帰る同級生がいた。彼女は教会の事務をしていて、午後から仕事をして、帰宅後にレポートを書くと言っていた。私は午睡してから夕方に取り組んでいたから、彼女の話は刺激になった。
3年生と話をすると、自分の牧師と話をするよりも豊かな知識があった。「3年間学ぶと、こんなに成長するんだ」と、単純に思った。
夏休み初日、隣の教会でゴスペルワークショップがあった。訳も分からず参加して、初日をこなした翌日、高熱が出た。1週間寝込んだ。後で先生に聞くと、「1年生の夏、高熱を出す学生は結構いる」とのことだった。
若くなる気分
テレビも新聞も見なかった。日中はびっしり勉強していた。大学受験よりも、大学の勉強よりも、人生で最も集中して学んだ時間だった。
学問をしていると、若くなったような気分になった。聖書の通り、日々新しくされる実感を掴んだ。
人生に遅すぎることはない
67歳で学生になるなんて、今さら?と思う人もいるかもしれない。
でも、学びたいと思ったとき、それが始め時だ。完璧じゃなくていい。入学式に遅れても、駅を間違えても、ギリシャ語を保留にしても、構わない。
人生に「遅すぎる」なんてことは、ない。
何かを始めたいと思っているあなた。今日が、その日かもしれない。
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